JICA関西センター物語(15) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「震災と大阪国際センター(下)」

2024年5月2日

前号では2011年3月11日に発生した東日本大震災のあと、福島県二本松市にあるJICA海外協力隊の二本松訓練所(以下「JICA二本松」)が避難所として活用されたというエピソードをご紹介しました。

避難所としての利用は地震発生2日後の13日から7月末までの4ヶ月半に及びました。その間JICA二本松に代わってJICA海外協力隊候補者の派遣前訓練を行う会場となったのが、大阪国際センター(以下「JICA大阪」)です。なお、長野県駒ケ根市にも訓練所(JICA駒ケ根)がありますが、ここですべての候補者の訓練を行うことはできませんでした。

当時はまだ関東地方は原発事故の影響も懸念されていた時期です。JICA大阪は東京にある研修1施設に次ぐ収容規模2で、東京以外で多くの候補者を受け入れることができるJICAの施設は他にはありませんでした。

今回はJICA大阪における東日本大震災発災直後の様子、その後の研修事業への対応、そして協力隊訓練の実施にまつわるお話をお伝えいたします。


1 開発途上国から日本に来てJICAの研修事業に参加する。研修期間は数週間から日本の大学院での学位取得を目指す最長3年まで多様。参加者の大宗は各国政府の行政官で、研修事業を通じて知見・技術を共有し、自国の発展のために生かす上で核となる人材である。中には、研修参加後、数年で自国政府の局長、次官、さらに閣僚にまでなった実績もある。他にも開発途上国のビジネス界や学術界などからも参加している。

2 宿泊可能人数は300名。JICA東京(渋谷区)は458名。

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(写真:大阪国際センター外観。2012年頃、当時のセンター職員が撮影。)

発災直後の状況

東日本大震災発生時、気象庁の記録によれば大阪でも場所によっては震度3を記録したところもありましたが、JICA大阪は地震そのものによる人的・物的被害はありませんでした。しかし事業やセンター運営に対する影響は大きかったようです。当時JICA大阪の研修業務課長だった大野ゆかり氏のお話です。

「地震はJICA大阪の研修業務にも大きな影響がありました。地震の影響で成田空港が使えなくなり、関西空港から成田空港経由で母国に帰国予定だった多くの研修員は帰国できなくなりました。そのため、帰国までの滞在をJICA大阪で引き受けました。JICA大阪に滞在していた研修員のみならず、JICA四国(香川県高松市)、JICA中国(東広島市)、JICA兵庫(当時)に滞在していた研修員も、一旦JICA大阪で引き受けることになりました。研修員は研修プログラムを終えて、あとは帰国便に搭乗するだけの予定だったため、日本円もほとんど持っていませんでした。JICA大阪から空港への移動、宿泊部屋の確保、ミール・クーポン(食事券)の発給などの対応に追われました」。

また地震の後、予想もしない形での影響も受けました。当時のJICA大阪の総務課長のお話です。

「地震から数日経ったある日、センター1階に続々とイスラム教徒の方たちが現れ、1階の共用部がいっぱいになりました。100人以上、150人くらい集まったと思います。テレビ局もカメラを担いで現れ大騒ぎになりました。彼らになぜセンターに来たのか尋ねたところ、『関東が放射能汚染されるので、茨木市3にあるモスク4に助けを求めてきた』とのこと。間違ってJICA大阪を紹介した人がいたのかもしれません5。帰ってください、とも言えません。センター内では対応できず、茨木市側と相談すると、担当の方もすぐに来られました。そこで要請されたのは、『JICAで泊まれる人数は泊めてほしい。残りの方たちは茨木市でなんとかしますので』というもの。JICAとしてもできるだけ協力したいと思い、その提案を受け入れました。

結局、集まった半数くらいの方たちをJICA大阪で受け入れることとなりました。しかし簡単ではありませんでした。家族や性別などを聞き取り、さらにどれだけの期間宿泊したいのかも考慮し、宿泊手配を行いました。協力隊の訓練が始まる4月には次の行先を探しておいてほしいとお願いしていたのですが、全員が約束通り別の滞在先に移られました」。

研修事業への影響

地震発生2日後にはJICA二本松が避難所として使われることになったため、その年の4月からJICA二本松で実施予定だった協力隊候補者の訓練はJICA大阪で実施することが決まりました。しかし施設のキャパシティには限りがあります。またこの施設で訓練を行うことに対する研修関係者の懸念もありました。引き続き大野氏のお話です。

「協力隊(候補者)の訓練を行うとなると、JICA大阪に滞在している多くの研修員に民間のホテルに移っていただく必要があります。センター周辺のホテルはもちろん、京都のホテルとも受入れ交渉を行いました。

研修員にホテルに移っていただくこと関しては、研修を担当する職員などから言葉や食事、またパソコンのネットワーク環境や日々の研修後のグループワークなどの作業を行うスペースなどに対して多くの不安の声が上がりました。結局、多くの関係者、さらに研修員にもご理解とご協力をいただき、訓練に(参加する協力隊候補者が宿泊するのに)必要な部屋数をJICA大阪内で確保することができました。また食事制限のある研修員のためにホテルと交渉して、研修員専用のビュッフェを取り入れていただくなどのご協力をいただきました」。


3 JICA大阪は茨木市内に立地していた。

4 イスラム教徒の礼拝堂。茨木市内には今もモスクがある。JICA大阪の職員がモスクの方にセンター内での混乱の様子を伝えると、モスク側は調整のためのスタッフを派遣してくださったとのこと。

5 当時のJICA大阪の職員によれば、「家族で避難された方たちも複数いらした。また、『ツイッターを見てここ(JICA大阪)に来た』と話していらした」とのこと。

語学講師の情熱

JICA大阪での協力隊候補者の訓練開始に当たり、懸念されたことがあります。それは、「果たして語学講師が大阪まで来てくれるのか」ということでした。JICA二本松では610名の語学講師が勤務しており、協力隊候補者の語学訓練にあたっておられました。

当時、訓練を担当していたスタッフのお話です。

「当時はまだ放射能汚染状況の情報が乏しく、国によっては日本に滞在する自国民に対して退避勧告を発出している国もありました。語学講師の中には精神的にかなり不安定になっていらっしゃる方もいました。そんな中、たとえ福島第一原子力発電所から遠く離れているとはいえ、本当に大阪に来てくれるのだろうかと。しかし杞憂に終わりました。集合の日、語学講師がひとりも欠けることなく全員集まったのです。彼らのこの事業に対する情熱を感じ、万感胸に迫る思いでした」。

こうしてJICA大阪では、4月~6月に137名が、また7月~9月に112名の計249名の協力隊候補者が無事派遣前訓練を修了し、隊員として任国に派遣されていきました。

今回はJICA大阪にて、このような緊急事態にも対応したことを紹介させていただきました。しかし訓練所としての役割を終えた6ヶ月後の2012年3月末、神戸にあるJICA兵庫国際センター(現JICA関西)との統合により、施設は閉鎖されることとなります。次回は二つのセンターの統合についてお伝えいたします。


6 他に外部委託会社から語学講師が約20名が勤務されていた。

【画像】

(写真:体育館では研修員や隊員候補者たちが汗を流した。撮影は当時のセンター職員。)

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦